おずぃぢゃ。
今日はからだのこえ、という話をするぢゃ。
体の声、聞いているかな。
過労とか、疲れているかとか、そういう話をしているんじゃない。
本当にしたいかどうかを、
体に聞いているのか、どうなのか、ぢゃ。
これは大切ぢゃ。
分かれ目といってもいい。
例えば、ある仕事が目の前にある。
お金がたくさん、儲かりそうな仕事だ。
でも、体が嫌がっているとする。
前に進もうとしても、体が動かない。
こんなことはないかな。
ここで、そなたは選択をせまられる。
体を無視して、それをするか。
体の言うことを聞いて、それをやめるか。
はたまた、こういうことはないかな。
映画をみていたとする。
ある場所が映し出される。
訳もなく懐かしさにかられる。
いったこともないのに。
すごく行きたいと思う。
行ってみたいという衝動に駆られる。
頭で必死に抑える。
仕事はどうするんだとか。
いって意味があるのかとか。
お金がかかるじゃないかとか。
このように
常に、体と頭は、葛藤している。
人によっては、
考える前に動く者もいれば、
考えてから動くものもいる。
どちらがいいか悪いかではない。
しかし、ここで大切なことは、
体と頭は折り合いをつけていかなければならない、ということだ。
無視をした場合。
体が拒否しているのに、頭でそれを無理やりした場合、
当然のごとく、体と頭の距離は離れていく。
それが繰り返されると、どんどん離れる。
こじれてしまった人間関係のように。
そして、それがある一定のレベルになると、
それは病気という形をとって、そなたの前に現れる。
もはや無視はできなくなる。
で、体がいいというのではない。
体のいいなりになればいいというものでもない。
体には、本能がある。
本能は欲望になる。
欲望のまま、本能のままに生きていたのでは動物と変わらない。
大切なのは折り合いをつけることだ。
バランスをとるということだ。
多くの人、
特にこのメルマガを読んでいる人の多くは
頭にバランスが傾いている。
頭に傾きすぎて、体の声が聞こえ辛くなっている。
これは問題じゃ。
症状がすでに出始めている人もいるのではないかな。
また、それすらも無視するというのであれば、
問題は消えない。
ますます大きくなるじゃろう。
だから、折り合いをつけなければならない。
折り合いの第一。
それは体を見直すことにある。
自分の体を感じてみる。
どんな状態なのか。
背中のぬくもり。顔のつっぱり。
膝の感じ。
ふとももの感じ。
体を別の人として、いたわってみてはいかがじゃろう。
実際に、体はそなたものではない。
これは言っておかなくてはならない。
そなたの体は、そなたものではない。
その証拠にそなたは体をつくれまい。
生まれてきて、気づいていたら「入っていた」のぢゃ。
そなたではない、何かが、母の胎内にて、作り上げた。
母ですら、体を作った人ではない。
しかし、ひとりでに偶然に、体というのは作れるものではない。
その証拠に、今の科学の全てをつぎこんでも、指すら作れてはいない。
更に言おう。
そなたの体は無数の細胞によってなりたっている。
そして、その細胞すべてが、鼓動をし、循環をし、命をもっている。
細胞は毎日、生まれ、毎日、死んでいる。
そなたのからだは
なんおくものたにんがあつまってできている。
あるものは、そなたの意志に従って動き
そしてあるものは、そなたの意志とは関係なく、動く。
心臓をとめられまい。
腸を動かせまい。
そなたの意思とは関係なく、生きるものがいる。
さて、つまりはまったくのたにんが
そなたのからだをつくり、いかし、うごかしている。
そのことに気づいているかどうか。
そこからじゃ。
そこから自立が始まる。
親の世話になっているうちは親がどれだけのことを
そなたのためにしているかわからない。
そなたが子をもち、育てるだんになって、
どれだけのことを親が知らず知らずにしてきてくれたか、
気づき、涙を流すじゃろう。
そして、体もまた、
そなたの知らないところで、凄まじいまでに生きている。
そのことを知っているかどうか。
気づいているかどうか。
考えても意味がない。
分かったふりをしても、意味がないどころが、逆に有害じゃ。
そうではなく、感じるのぢゃ。
そこには他人がいる。
そして、その他人は、そなたに寄り添い、共に生きている。
そなたを生かそうとしている。
そこに条件などない。
シグナルがあるだけじゃ。
そのシグナルを聞いているかどうか。
シグナルがあるということに気づいているかどうか。
そなたは、体の中で、生きている。
