■手放すことと得ること
手放すことと得ること、という話をする。
手放すことと得ること、これはおなじことのふたつの側面ぢゃ。
ん?
と思ったものは賢い。
なぜなら、これは両立しないと考えられているものぢゃ。
手放したら、失う。
得るためには、手放してはならない。
そう習ってきているし、思っているぢゃろう。
しかし、真実は違う。
手放したものが、得られる。
これもまた、簡単な法則ぢゃ。
コップをもってみなされ。
で、そのコップを手放すまいと、もちつづけながら、
フォークがもてるかな?
いいや、もてやしない。
つかんだままで、次のものはつかめない。
新しいものを得るには
古いものは手放さなくてはならない。
しかし、多くのものは
ここで恐れを感じる。
手放したら、
なにも手に入らなくなるんぢゃないか、と。
そうやって、
古いものに、すがって生きる。
これは選択ぢゃ。
どちらも選ぶことができる。
どちらが良くて、どちらが悪い、というものではない。
しかし、分かるぢゃろう。
手放す時期が来た。
新しい旅立ちの時が来た。
それは、
どんなに目を背けても
自分だけが、分かるシグナルとして
否応なく、そなたに信号を発するぢゃろう。
そんなときは
荷物を少なくしてごらん。
心地よい旅ができる。
荷物は常に少ないほうが、
旅をするには心地よい。
荷物が多いと
色んな状況に対応できると考えがちぢゃが、
案外そうでもない。
万事の状況に対応することは不可能。
であれば、どんな状況にも対応できる実力をつけるほかない。
実力とは、体力と精神力と、自分の力を越えた力 により成り立っている。
これらが充実したものは、
なにものにもすがることなく、常に身軽で、自由ぢゃ。
逆に、弱いものであればあるほど、
多くのものを、まわりにおきたがる。
そして、自分が集めてきたものにうもれて
誰が自分を不自由にしたのか、などと、嘆いてみせる。
弱いものは、常に嘆く。
強いものは、自らの生命の危険すら、楽しみ、乗り越える。
世は、これを歌舞伎者と呼ぶ。
かぶきよるのぢゃ。
手放す。
ここで初めて得られる。
このことを覚えておきなさい。
分からなくてもよいから。いつか、わかるから。
自分には何も与えられないという人は
もしかしたら、自分が何も手放すまいと、
必死で何かにしがみついているのかもしれない。
自分だけは、恵まれないと言う人は
かたくなに何かにとりついているのかもしれない。
自分がなににしがみついているかを見極めるのは
簡単なようで難しい。
魚が水の存在に気づかぬように。
他から見れば一目瞭然なのだが、本人にとっては
空をひっくり返すぐらい難しいことなのぢゃ。
本当に手放すということは
時として、生命の危険すら感じる。
自分だけ安全に匿われて
手放したといっても、それはままごとぢゃ。
ぬきさしならない状態になって
初めて動き出す力、野生というものが
人にはある。
安全でありすぎると、この感覚はどうしても鈍る。
そこで、成功人と言われる人は
この感覚を常に磨く努力をしている者が多い。
温室のなかでは
死んでしまう感覚があるのを彼らは知っている。
よく良家の息子が、
どうしようもない子どもとして育つ場合があると言うが
不思議でもなんでもない。
温室に育てば、内なる力は眠ったままぢゃ。
自分を放り出しなさい。
海と空と、人間に向かって、飛び込むのぢゃ。
そこに生命の実感がある。
生きていることの証明がある。
手首を切ったぐらいで得られる実感とは
わけが違う。
そなたたちは生きている。
死んだように生きてはならない。
自分の生命の全てを使って、
闇をほとばしる光のように
駆け抜けるのぢゃ。
どうしたら、そうなれるか、を考える必要はない。
いつまで、準備をするのぢゃろう。
選択はふたつ。
なるか、ならぬか。
するか、しないか。
なるために、何かをする必要はない。
するために、何かをする必要はない。
ただ、飛び込めばよいのぢゃ。
